千と千尋タイトル

2001年に公開された『千と千尋の神隠し』は、観客動員数2300万人! 現在に至るまで日本映画第1位の座にある作品である。
ということは、このシーンも2300万人の日本人が目撃したわけですなあ。

不思議の国に迷い込んだ荻野千尋は、神や霊たちが集う湯治場・湯屋で働き始める。初日の朝、事件は起こった。
全身ドロドロで悪臭芬々たる怪獣へドラのようなお客さまが、ご来館されたのだ。
正体は名だたる川の神さまで、人間が川を汚したために、神さまもそのような姿になられたのである。体がヘドロにまみれているのか、ヘドロが体そのものなのかさえわからない。歩くたびに、体重のかかった部分からドブ紫色の濁り水がじゅわ~っと染み出し、腕から背中からボコボコとガスが噴き出す。

丁重にお帰りいただこうとしたカエルの従業員は、あまりの悪臭で失神。出迎えた湯婆婆も顔面硬直、千尋は髪も着物もぞわっと逆立つ。
そして、千尋が神さまを湯殿に案内しているとき、先輩のリンが自分と千尋の朝ご飯を運んできた。彼女が「うっ!」とにおいに気づいたのと同時に、山盛りのご飯が、まさに「萎びる」という感じで、縮んで茶色くなって黒い煙をもわっと上げたのである。

む~、書いているだけで胸が悪くなってきた。しかし、においに、ここまでの力があるのだろうか。

においが命にかかわることも

においとは、空気中を漂う分子が嗅覚細胞で起こす感覚だ。
食物の選択、有毒物質の回避、捕食者接近の感知、異性の認識や誘引に役立っている。腐った物や毒物を食べずに済むのも、みすみすライオンに食われないのも、子孫繁栄に邁進できるのも、においのおかげなのだ。「においよ、ありがとう」とお礼のひとつも言いたくなるが、そう呑気な話でもない。

強すぎるにおいは、単に不快なだけではない。不眠、不安、ヒステリーといった精神的影響に始まり、頭痛、嘔吐、食欲不振、動悸、血圧上昇、呼吸困難、生殖系の異常といった生理的な危機をも引き起こす。
とくに、このたびのにおいの元は、ヘドロである。ヘドロとは、さまざまな有機物が泥と混ざったもので、その有機物を細菌が腐敗させ、硫化水素、アンモニア、メルカプタン、インドール、スカトールなど、強烈な臭気を持つガスを発生させる。
インドールやスカトールは、大便のにおいの根源。メルカプタンは、スカンクやイタチのおならの威力の源。千尋たちがどんなにおいを嗅がされたか、想像していただきたい。

それだけならまだいいが、いや、あまりよくないが、硫化水素は粘膜に炎症を起こし、青酸ガスなどと同様に細胞呼吸を阻害する。アンモニアも粘膜を冒し、炎症や腫れで気道を閉塞させ、窒息に至らしめる。実際に、産業廃棄物の集積場や、汚泥の処理槽などで、人命にかかわる事故が起こっている。
つまり、臭すぎて死んでしまうという現象は、現実にあり得るのだ!
湯屋の従業員に深刻な被害が出なかったのは、不幸中の幸いだったといわなければならない。私たちも気をつけましょう。

亜硫酸ガスが原因か?

だが、いくら何でも、悪臭でご飯が萎びるのか。縮んで茶色くなって煙を上げるのか? 調べてみたが、腐敗によって発生するガスに、そうした効果は期待できないようだ。

一つだけ可能性があるとしたら、二酸化硫黄である。亜硫酸ガスとも呼ばれるこの化合物が、腐敗によって作られることはないが、大自然は広大だ。川の神様のヘドロのなかに、有機物から二酸化硫黄を作る細菌がいたとすれば、次のようなシナリオが考えられないだろうか。

二酸化硫黄が酸素と化合すると、三酸化硫黄が作られる。三酸化硫黄が水に溶けると、濃硫酸になる。濃硫酸は、強烈な脱水作用を持つ。ヘドロから放たれた二酸化硫黄が三酸化硫黄となり、ご飯の水分に溶け込んで濃硫酸となって、ご飯を作るデンプンから水素と酸素を奪い、炭素だけにしてしまった……とか。

筆者は、これに類する実験をやったことがある。
砂糖に濃硫酸をかけたところ、真っ白な砂糖がもうもうと煙を上げて、たちまち真っ黒になったのだ。同時に、その中に気泡が生じるために、黒くなった砂糖は、ヘビ花火のように体積を増しながら盛り上がっていった……あっ、いかん。煙が上がって黒くはなっても、体積が増えてしまったのでは、劇中の描写とは正反対。萎びたことにもならない!

千と千尋図解※ここにイラスト(親本『7』P42)を入れてください

おまけに、ご飯が変色するほどの濃度で二酸化硫黄や三酸化硫黄が立ちこめていたら、目やのどの粘膜が激しく冒され、リンや千尋をはじめ、湯屋の面々はのた打ち回ったはだず。
すると、二酸化硫黄が原因ではないのだろうなあ、これ。

神さまの細菌だとしたら?

腐敗ガスが関係ないなら、腐敗の張本人、細菌はどうか。
細菌はどこにでも存在し、条件が整えば増殖を始める。その個体数が一定量を超えたとき、人間にとって有害となり、繁殖の場となる食品などが腐敗したということになる。
神さまのヘドロから細菌が浮遊してご飯に達したか、初めからご飯に付着していた細菌が神様のご来館によって活気づき、急激に増殖し始めた……と考えたら?

気になるのは、増殖の勢いがあまりに猛烈なことだ。
リンが神さまに近づいてから、ご飯が変容を遂げるまでわずかに10秒。どんな環境でも、ご飯が変色するほど腐るには3日はかかるだろう。
すると、細菌どもは通常の2万6千倍の速度で増殖したことになる。さすがは、神さまの細菌、もしくは神さまのご威光である。

だが、そうだとすると大変だ。この調子では、ありとあらゆるものが猛烈な勢いで腐り始める。
腐敗には水分が必要だが、宿泊入浴施設である湯屋の場合、そこら一帯、湿気は充分。山のようなご馳走は、運んでいるそばから腐って生ゴミの山となり、ちょっとした傷がたちまち化膿してウミが噴き出し、壁も天井も見る見るボロボロになっていく。
建物があと100年持つはずだったとしても、明日の午後にはたちまち倒壊……!

従業員一同が、必死にお帰りいただこうとしていたのも当然だ。近くに寄っただけでご飯が萎びるような神さまは、やはり危険というほかない。さわらぬ神に祟りなし。
何より、川は汚さないようにしましょう。【了】